人になる勇気

長い間戦った彼を尊敬します

光市の母子殺害事件がようやく決着の目を見ました。
少年だった青年は死刑になりました。これを見て私はやった! とも早く死ね! とも思わない。正直、自業自得ではあるけど哀れな少年と言うしかないです。
私は死刑に賛成でした。しかしそれは彼が憎い訳ではなく、今後起こりうる少年犯罪に歯止めを掛けたとも言えるからです。簡単に言えば見せしめと言う感じでしょうか。悪い事をしたけど自分は未成年だから罰せられない、と言う風に勘違いしている人がひょっとしたらいるかも知れないから。それが凶悪な犯罪でも軽微な犯罪でもやはり悪い事は悪い、罰せられる罪は罰せられると言う当然の事が厳然としてある、そう言う当然とも言える常識を理解して欲しいと思ったのです。だから、今回の判決でもし無期懲役になったら、と思うと気が気でない。死刑になってほっとする、と言う、人の死を当然の如く望むのはかなり道徳的に間違いがあるかも知れないですが。
少年が哀れだ、と表現したのには理由があります。小さい頃から父親のDVが横行する。中学の頃帰宅してみたら母親が首を吊っていた。更に母親と言う歯止めが利かない状況で父親の暴力は少年の心を荒ませ、よく分らないフィリピン女性と再婚してもやはり家庭環境は変わらず、劣悪になるばかり。そんな少年時代を通してみれば確かにまともな人間形成は出来ないでしょう。
そして犯罪者への道を歩む。近所の綺麗な奥さんに目をつけ、強姦目的で侵入し抵抗されたから殺した。子供が泣き叫び、近所に不自然に思われたら危険だと判断して今度は抵抗出来ない子供を絞め殺す。静かになった状況で強姦の目的を達成する……と言う感じでしょうか。押入れに入れる事は忘れずに。
更に彼は自分が犯した罪を全く認めようとせず、殺される側に回らないと思い友人に手紙を出した。自分は未成年だから直ぐに出てこられる。可愛い女がいたからやった、それの何がいけないのか等など。この手紙の内容は裁判にも適用され、被告に全く反省の色が無いと判断されます。それと共に被害者遺族や世情を逆撫でし、死刑の色が濃厚になっていく事に気付かず調子に乗っていく。殺した人間が殺される側になって初めて自分の保身を考える様になっていきます。
http://d.hatena.ne.jp/ekuseidcharge/20060621
上記のリンク、以前書いたとは思いますが本村さんが被告の父親を尋ねた処、まるで自分は悪くない、息子が勝手にやったことだから非は無い。それだけでなく、妻がいなくなって寂しいなら再婚しろ、等の罵声とも言うべき悪口雑言を吐いたと言う事でした。テレビのインタビューにも答えた事はありますが結局自分には非が無いと言う態度を前面に出していたとの事。それに実はインタビューに答えたのはテレビ局から貰える日銭目当てだったと言う事もあるでしょう。これには本村さんやテレビを見ていた自分、いや、誰しもこの父親に殺意を覚えたかも知れません。この父親が全く少年に道徳を教えず、更に快楽の為の化け物になる要因を作ったのだと確認せずにはおれません。
そして今更ながら自分の命が危険に晒されている事を弁護士から伝えられた少年は死刑廃止論者の安田弁護士の言う通りに行動する事になりました。ここでイデオロギーのぶつけ合いが始まります。どんな事をしてでも死刑を回避する、その目的の為に安田弁護士通りの供述を始める少年。死姦したのは生き返りの儀式、赤ん坊の首を絞め殺したのではなく襟のリボンを強く結びすぎた為、等の有り得ない供述をして殺意を否定します。そうすれば死刑は回避できると安田弁護士からアドバイスを貰ったのです。これは確かに有り得ない供述ですが、殺意回避の目的でなら確かに巧みな論旨かも知れません。少年は反省すると言う事を忘れ、生にしがみつく事で死刑を回避出来ると信じていたのかも知れない。しかし皮肉にもこの供述自身が彼の首を絞める事になるとは思わなかったでしょう。この時点で安田弁護士の事を全く聞き入れず、死を覚悟してでも遺族に謝罪する。それが彼の最善の策であったにも関わらず前後不覚な少年は馬鹿な供述を始めてしまいました。
基本的に、安田弁護士を擁護する弁護士は多く、罪を憎んで人を憎まずの精神で加害者の人権を保護する目的で弁護団は動いています。死刑判決と言う重要な裁判で歯止めがなくなってしまったら、これから先死刑判決が横行する事がある、と言う説から彼らは死刑を反対するのです。が、それはある意味建前論で、自分が死刑廃止論者の顔であり、そのイデオロギーを通す事に全力を出す、そんな建前論者になってしまっているとしか思えません。その為にはどんな手も使い、論旨を構築して被告に有り得ない供述をさせてしまう要因を作ったとしか言いようが無いのです。そしてやはり結果としてこの供述も世情を逆撫でし、極刑を持って少年に罪を教えると言う世論が沸き起こります。
確かに少年は許されざる罪を犯しました。人間としてやってはいけない事、つまり弱者をいたぶり、自分の快楽を優先させる。理性のタガを外して女性を襲い、更に抵抗したので殺した等など。しかしこれは人間の当然の常識を理解していなかった、更に言えば理性を教えるべき父親がどうしょうも無く外道だったから、起こったとも言えます。更にイデオロギーの論争に巻き込まれ、大人の言う通りに行動すれば自分は死なずに済む、と思い込んで妙な供述を話し始める。結局彼は悪い大人達に翻弄され死刑台を歩んでしまった哀れな少年だった、と思うしかないのです。
彼の許されざる罪は何でしょうか。それは多分、理性ある人間になれなかった事、だと思います。理性ある人間ならば、そんな馬鹿な供述は吐きません。自分が何をしてどうすれば良かったのか、多分獄中にいる現在でも彼は理解していないと思われます。彼自身が自分の犯した罪を理解し、反省し、心を込めて遺族へ謝罪し、その結果自分の命がどうなろうと構わないと思うこと。それが人としての道だと言う事を9年掛けても結局理解できなかったのです。本当に彼の人生は惨めで哀れだったと表現するしかありません。
少年による凶悪な事件は日に日に度合いを増している様な気がしてなりません。今回の事件も、最初は警察の非情なる追及で罪を犯した事を認めてしまった事件、つまり冤罪なのではと思いましたが少年の友人に宛てた手紙で確信的な犯行だったと思いました。そしてこの手紙自身が文字通り墓穴を掘ったのだと。これほど確実な自供は無い、と考えます。
しかし世の中には警察の拷問に等しい追及でつい「やってしまった」と答える人は多いのかも知れません。そう思った時、学生の時に見た塀内夏子先生の「勝利の朝」を思い出しました。残念ながら絶版扱いなので通販では手に入りませんが、オークションやブックオフ等で手に入るかも知れません。弁護士の方々にも人気の模様。
http://yoshimine.dreama.jp/11/6/
自供等していないにも関わらず「他の奴らは自供したぞ」の一言で孤立してしまう少年。追い詰められた末「僕がやりました」の一言でいきなり態度を豹変する刑事。しかし弁護士の説得で少年は「自分はやっていない」と発言する勇気を持ちました。ひょっとしたら未成年だろうが成人しようが明日にはあなたもこうなるかも知れない、幾ら自分が警察に囚われたからと言って間違った自供をするべきではない、と言う事をこの本は強く訴えています。もし見掛けたら是非読んでみてください。いかに警察がいい加減な捜査をしているかと言う事も顕し、更にマスコミは「事件が解決した」と言う結果だけを求める、こんな世の中でいいのでしょうか、と私は考えます。エクシは警察が大嫌いなので。
ベクトルはちょっと違いますが、彼は結局人になる勇気を持てずに死刑と言う結果が待っています。私にしてもこの文を読んでくださった方々にしても、どんな時に際しても本当の事を話す勇気を持って欲しいと常々考える次第です。
最後に本村さん、9年間本当にお疲れ様でした。
それではまた。